ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相
岸田 文雄 きしだ ふみお | |
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![]() 2017年 大阪市内で演説する岸田 | |
生年月日 | 1957年7月29日(64歳) |
出生地 | ![]() |
出身校 | 早稲田大学法学部卒業 |
前職 | 日本長期信用銀行行員 衆議院議員岸田文武秘書 |
現職 | 衆議院議員 |
所属政党 | 自由民主党(岸田派) |
称号 | 法学士(早稲田大学・1982年) |
配偶者 | 岸田裕子 |
親族 | 祖父・岸田正記(元衆議院議員) 父・岸田文武(元衆議院議員) 従兄弟・宮澤洋一(参議院議員) |
公式サイト | 岸田文雄ホームページ |
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内閣 | 第2次安倍内閣 第2次安倍改造内閣 第3次安倍内閣 第3次安倍第1次改造内閣 第3次安倍第2次改造内閣 |
在任期間 | 2012年12月26日 - 2017年8月3日 |
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内閣 | 第3次安倍第2次改造内閣 |
在任期間 | 2017年7月28日 - 2017年8月3日 |
内閣 | 第1次安倍改造内閣 福田康夫内閣 |
在任期間 | 2007年8月27日 - 2008年8月2日 |
内閣 | 第1次安倍改造内閣 |
在任期間 | 2007年8月27日 - 2007年9月26日 |
選挙区 | (旧広島1区→) 広島1区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1993年7月19日 - 現職 |
岸田 文雄(きしだ ふみお、1957年〈昭和32年〉7月29日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(9期)、宏池会会長(第9代)、自由民主党広島県連会長[1]。
内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、再チャレンジ、科学技術政策)、外務大臣(第143代・第144代)、防衛大臣(第16代)、自民党国会対策委員長(第52代)、自由民主党政務調査会長(第58代)、自民党たばこ議員連盟副会長などを歴任。
中小企業庁長官、衆議院議員を務めた岸田文武は父[2]。戦前戦後に衆議院議員を務めた岸田正記は祖父[3]。参議院議員・経済産業大臣を務めた宮澤洋一は従兄弟[4]。愛称は「キッシー」[5][6]。
経歴[編集]
出生[編集]
東京都渋谷区生まれ[7]。本籍地は広島県広島市比治山町(現:南区比治山町)[要出典][8]。父・岸田文武は広島県出身の通産官僚。岸田家は広島の一族であるため、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆の被爆者たちから当時の話を聞いた[9]。岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた[9]。
学生時代〜銀行員時代[編集]
1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国・ニューヨークに居住し、小学校一年生から三年生まで三年間、現地の公立小学校に通う[10]。1963年秋から「PS 20」に通ったのち、1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[9]。岸田にとって少年時の在米経験は、人種差別により正義感と義憤の念を強く持つものとなったが、アメリカ国家としては大らかさ、多様性、活気が印象付けられ、国家の普遍的価値である「自由」に大きな影響を受けることとなった[9]。
1966年6月にパブリックスクール三年次を修了(米国は小学校入学が日本より半年早い)して日本に帰国。7月に千代田区立永田町小学校の三年次に転入。千代田区立麹町中学校を経て、1973年に開成高等学校入学[11]。野球部に入部し、高校生活を野球に捧げ、その傍らでロック/フォークの流行に影響を受けギターに打ち込む[11]。岸田は開成の絆を後半生においても大切にし[注釈 1]、大臣を歴任する政治家となったのちに500名以上の開成OB官僚を率いる開成会の「永霞会」(永田町・霞が関開成会)主催者となっている。1976年に同高校を卒業、東京大学合格を目指し2年間の浪人を経験。1978年に早稲田大学法学部に入学。1979年、父・文武が通産省を退官し、衆議院議員に当選。1982年、同大学同学部(民法(不法行為):浦川道太郎ゼミ[12])卒業[2]、同年日本長期信用銀行に入行[2]。
長銀入行後、最初の配属は本店勤務で外国為替業務を2年半経験し、こののち海運業界担当の営業マンとして高松市に2年半赴任した[11]。世界の金融マーケットで巨額の資金を動かす外国為替は銀行における花形業務である。しかし岸田は高松の地方営業では利息すら払えなくなった会社から経営再建の支援継続を相談されたり、倒産や夜逃げを目の当たりにして世間の厳しさや経済というものの激しい実態を知った[11]。銀行員として社会の矛盾を感じながら、5年間の長銀勤務を終える[11]。
政界[編集]
1987年、長銀を退職して父・衆議院議員岸田文武の秘書となる[2]。岸田の父は口数が少なく、岸田は父の背中から多くを学んだ[11]。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に旧広島1区から自由民主党公認で出馬し、初当選[2][13]。父親と同じ宏池会に所属する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い広島1区から出馬し、以後広島1区で連続8選[2]。1997年には若手議員の登竜門とされる党青年局長に就任した[2]。
2000年、派閥領袖の加藤紘一が起こした「加藤の乱」に血判状をしたためて参加。乱の鎮圧後は堀内光雄、宮澤喜一らから声をかけられ堀内派に属した[14]。
2001年、第1次小泉内閣で文部科学副大臣に任命される。2007年、第1次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、再チャレンジ、科学技術政策)に任命され、初入閣した[2]。続く福田康夫内閣でも内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、科学技術政策)に任命され、引き続き入閣。
2008年、新設された消費者行政推進担当、宇宙開発担当大臣を兼任[2]。福田康夫内閣 (改造)の発足に伴い大臣を退任し、党の消費者問題調査会長・道路調査会副会長兼事務局長、団体総局長に就任[2]。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、広島1区で民主党の菅川洋を破り、6選(広島県の小選挙区で議席を獲得した自民党の候補者は岸田のみ。また、広島1区では初めて次点以下の候補者が比例復活した)。2011年9月、自民党総裁谷垣禎一の下、党国会対策委員長に就任し、野党自民党の国会対策を担い与党民主党との交渉を担った(2012年9月退任[2])。2012年10月、政界引退を表明した古賀誠から宏池会を継承し、第9代宏池会会長に就任した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、広島1区で7選。
外務大臣[編集]
選挙後に発足した第2次安倍内閣では外務大臣として入閣し[注釈 2]、第2次安倍改造内閣で留任、さらに2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で8選した後に第3次安倍内閣でも再任、自民党総裁選後の2015年10月に発足した第3次安倍第1次改造内閣でも外相を留任する。
2015年7月5日に決定した軍艦島のユネスコ文化遺産登録では、韓国の妨害に対して「forced to work(働かされた)」という表現を用いて遺産の説明を行うことで対処した。この表現について岸田は「強制連行」を意味しないことを明言し、徴用工訴訟問題と関連付けしないことも合意させた[16]。
同年12月28日ソウル市内で尹炳世韓国外交部長官と外相会談をし、日本国政府は韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団に10億円拠出し慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することで合意する日韓合意がなされた[17][18]。
2016年4月、地元広島で開催されたG7外相サミットの議長を務め[19]、他のG7外相と共に広島平和記念公園を訪問。広島平和記念資料館を訪れた後、原爆死没者慰霊碑に献花を行う[20]。同年5月、バラク・オバマの広島訪問が実現した際にオバマに対して原爆ドーム、原爆の子の像、折り鶴などについて通訳を介さずに英語で説明を行う[21]。
参議院選挙後、同年8月に発足した第3次安倍第2次改造内閣でも留任。同年12月、安倍晋三の真珠湾訪問に同行する[22]。2017年1月6日、外務大臣在職期間が大平正芳を超え、戦後の外務大臣としては歴代2位[23]、専任の外務大臣としては歴代最長となる[24]。
外相の起用[編集]
政策面では、内政の知識と経験が豊富であるが、外務大臣に起用されるまで外交に携わった経験はなく、幼少期のニューヨーク在住を除けば留学・在外勤務の経験もないため、本来なら外相は門外漢であった。しかし、外相起用に際しては普天間基地移設問題などを念頭に、岸田が沖縄担当相を歴任し、知事の仲井真弘多との親交も深いことが理由とされる一方、中国要人との太いパイプを持つ古賀誠を後見人に持ち、対話を重視するスタイルの岸田の起用が中国など関係諸国へのメッセージであるとの報道もある[25]。
安倍晋三とは1993年の当選同期であり、派閥は異なるが関係は良い。安倍が幹事長代理を務めていた時代に、党改革で議論を交わした仲とされ[26]、1度目、2度目いずれの安倍内閣にも入閣しており、信頼も厚い。特に、第2次内閣発足以降、「タカ派」と評される安倍が、連続5期、4年半余りにわたって岸田を外務大臣に起用し続けた理由については、岸田の実務能力を買ったともされるが[27]、『夕刊フジ』は「ハト派」で「親米派」でもあるが「親中派」でもある宏池会出身という点を鑑みて、菅、石破、河野らの人事も含め、中国をはじめとする周辺諸国への友好姿勢をアピールする狙いがあると報じた[28]。
防衛大臣[編集]
2017年7月28日、自衛隊南スーダン派遣での日報の隠蔽疑惑に関する問題の責任を取って稲田朋美が辞任したのに伴い、内閣改造までの一週間に渡って防衛大臣を兼務した[29]。外務大臣と防衛大臣の兼務は憲政史上初であった[2]。
政調会長[編集]
2017年8月の内閣改造では以前から希望していた党三役ポストである自由民主党政務調査会長に就任し、安倍晋三首相を支持して党内を乱さないことで2020年以降の『ポスト安倍晋三』に向けて存在感を示す方針を取った[30][31]。
2018年9月の自民党総裁選挙に向けては、岸田派内では若手を中心に岸田の出馬を求める主戦論が優勢である一方、ベテランなど一部に今回は首相支持に回り3年後に首相からの「禅譲」を狙うべきだとする慎重論があり[32]、最終的に7月2
ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相
2021年 09月 25日
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